慣れ親しんだ名字からの卒業
今週のお題「〇〇からの卒業」
ということで、今回は籍を入れるときに私が感じた
慣れ親しんだ名字からの卒業について、感じたことを書いてみます。
名字が変わること。
独身の時は、友達が結婚して名字が変わるのが、
感慨深くもあり、
羨ましくもあり。
小さい頃から、私には
名前が変わること=楽しいこと・嬉しいこと
というイメージがありました
。
snsで違う名前を名乗れることのワクワク感に近いかなあ。
生まれた時にはすでについていた名前ではなく、新しく別の名前を名乗れることが楽しそうと言うイメージです。
ちなみに、私は子どもの頃に両親が離婚していますが、その時も、新しい名字(母の旧姓)になれるの楽しみだなあっと心待ちにしていた不謹慎ものでした。
結局父の引きとめと、母の仕事の関係で手続きが煩雑だからという理由で、変わらないことになった時は、しばらく落ち込んだのを覚えています。別の名字になってみたかったのに〜と。
そんなタイプの人間だったので、「選択制夫婦別姓」が議論されたりすると、
・同性同士の結婚
・研究者が結婚した時に名字が変わってしまう問題
・夫が妻の姓になることがまだまだ少数派であること
など、様々なシチュエーションや問題があるから、賛成。
でも、どこか人ごとというか。
様々な立場の人が生きやすい社会であるために賛成だけど、
私自身は気にならない問題だなあとか、多くの既婚者女性には関係ない話だなっと思い込んでいました。
ところが。
いざ自分が姓が変わるとなったとき。
急に、とっても寂しくなったんです。
私は、中高が女子校だったせいもあり、あだ名がそのまま名字でした。
山田さんが友達から「山田ー❕」と呼ばれている感じです。
だから、今まで当たり前に呼ばれてた名前が急になくなると言うか。
今までの自分がなかったことになるかのような変な感じ。
昔国語の授業で、名前とは❔みたいな文章が教科書に載っていて、
その時に、アイディンティティって言葉を知ったけど、
アイディンティティの喪失ってこういうことを言うのかしら。みたいな。
おばあちゃんが、
「私は昔の名前(旧姓)でもいいのよ」
と言っていたり、
職場の10個以上歳上の女性が
「旧姓でも全然いい。」
と言っている時に、
なんとなく、嬉しそうでなくて、真剣な顔をしていて。
なんで嬉しそうじゃないんだろうって、妙に引っかかっていたのが腑に落ちた感じでした。
結婚は嬉しい。
今、とっても幸せである。
相手のことも大好きである。
は当たり前なんです。
ただ、自分が今まで色々なコミュニティ(学生時代の友達・趣味の仲間内・仕事仲間・取引先)で呼ばれていた名前から変わることが無性に寂しかったんですよね。
これ、あだ名が下の名前の人はあんまり共感しないかもだし、
あくまで、私個人の感想です。
あとは、別れてからも定期的に会って居る父に、名字が変わるねって話したら、結構寂しそうで。それは、まあ、そうだよなあと思いました。
生まれてから今まで当たり前にあった自分の名前から卒業することは、
やっぱり妙な気分になりますね。
父に限らず、当たり前だった家族が少し遠くに感じてしまう。
そんな寂しさもありました。
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では、籍を入れて1年経った今は、というと、
すっかり新しい名字にも慣れ、気に入っています♪
でも、学生時代の仲間は既婚者同士になっても、みんな旧姓で呼び合っているし、
そこに違和感もありません。
旧姓だった自分も、今の自分もどちらも大切な自分であることに変わりはないし。
家族も、別に名前が変わったからといって、関係が変わるわけでもないし。
あっ、私・母・祖母の家族は、全員名字が違うというおもしろ状態にはなりました笑
私の祖母の時代のように、嫁に入るとは、相手の家に嫁ぐことだ。
もう〇〇家の人間だ。
みたいな時代は、また違った大変さや息苦しさがあったのだと思います。
平成を超え、令和になった今、私自身は、名字の変化に大きな変化はありません。
(ただ、やっぱり手続きは煩雑ですね。平日じゃないと出来ないこと多すぎて、働く人には辛い。これは、もっとどうにかしてほしい…❕)
でも、寂しいと感じたあの名字変更までの数週間の気持ちも嘘ではなくて。
これを卒業の寂しさと綺麗にまとめて良いのかもわかりません。
制度や価値観が変化していく過渡期を生きている感じがしますね。
あの時の寂しさも大事にしつつ。
新しい名字との日々が愛おしい、今日この頃です。